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猫をこよなく愛し博士修行に励む日々

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Author:riel
アメリカで博士号をとり、近々大学の助教授となります

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在り難し・知識と智慧
今年も押し迫ってまいりました。 皆様いかがお過ごしでしょうか。 喪中のため、挨拶は控えさせて頂こうと思いますが、自分なりに今年を振り返って置けたらと思います。 皆さんは、ご家族で楽しいひと時をお過ごしでしょうか。 大切な家族、友人と過ごせる今この時を楽しまれていると嬉しいです。

人の生をうくるはかたく、
やがて死すべきものの
いま生命あるは在り難し。

これは法句経の中の一句なのですが、私の今年得た人としての智慧に一番近い表現だと思えています。 人間として生まれることも奇跡。 そして人間はいつかは死に行くものであるからこそ、今この瞬間にその受けた生命が輝いている事は、その瞬間々感動すべきものなのだということです。 最後の『在り難し』というのは感謝というよりも、『奇跡への感動』と私は解釈しています。 

父の死を迎えたこの年に、昔から座右の銘と決めていた『Carpe diem』、『Seize the day』、つまり『その日をつかめ』という言葉が、もっともっと意味を持つものとなりました。 

人間は、考えてみたらどうでも良いことに悩まされすぎて、大事なこの瞬間や、その瞬間を共有する大事な人々を忘れてしまっているときが多々あるのでしょう。 過去への悔恨、他人の中傷、他人からの中傷、他人の勝手な推測、又逆に勝手な他人への推測、そして知る由も無い未来への勝手な不安。 そんな事に大事な時間をとらわれていないでしょうか? こういうものから開放されるためには、これもやはり強い心と努力が必要なのだと思います。 これこそ、生きていく上で大事であり、努力に値する智慧なのだと思います。 考えてください、こんな気持ちから開放された心を持つこと、そしてだらかこそ『今』を生きられる強い心を持つことが、どれほど自分という今生きている、生かされている存在への『奇跡』に感動する余裕を与えてくれるか。 結果、これこそ充実した日々となるのだと思えてなりません。

私は、沢山のことを案じて、しかもよそ様のことまで案じて、人助けなることをしてきましたが、まずは自分の目の前に居るもっと大事な人々にその努力を注ぐべきだと学んだ一年でした。 決して他の人たちに冷たくなるということではなく、それはその人たちが、自分自身で解決していく問題であって、自分がお手伝いしようと頭を突っ込むことは反ってその人のために成らずということも多いという事。 ただし、俗に言う本当の意味での『Helpless』な動物や人々は別です。 五体満足であり、努力をすれば何とかなるであろう人には、反って手を出さない方が良いし、自分もその分もっと大事なSignificant othersとの時間ができるわけです。 灯台下暗し。 自分の周りの大事な家族や友人にもっと焦点をあてて生きたいと思わせてくれる一年でした。 父の死は悲しいものだったけれど、こんな歳になっても、私は色々経験させてもらって、『智慧』というものを授かることができるのだと思いました。 どんなに辛い経験も、必ず失うことの無い『智慧』となっていく。

日本は儒教の影響で、目上の人への尊敬を重視する文化がありますが、これは一重に『経験からしか掴めない智慧』の重要性を説いているからではないでしょうか。 私が若い頃、働きながら色々な勉強をするために学校に通いつめている時がありました。 その時、ある経験豊富な上司にこういう言葉を贈られたのです。 『リエルさん、”知識”を得るために頑張るのも大事な事だが、”智慧”を得る事へ目を向けることも大事ですよ。』 そう、知識というのは、老若男女その機会さえあれば、どこでも努力とともに手に入れる事が出来るのですが、智慧というものは、それなりに起伏ある人生を乗り越えてきてこそ得られるものがあるのです。 若い私にはその言葉の本意はつかみきれて居なかったかもしれません。 それでも、その頃の日本はまだまだ古き良き文化が残っていたのか、その目上の方からの助言をありがたく胸のうちにしまったのを覚えています。 

年上だからと威張ることもおかしいのですが、年上のひとであれば自分に無い智慧を持っているのだろうと想像できる若人は堅い人でしょう。 それは学位とか名誉とかお金では変えることができないもの。 そういうものに敬意を払う文化が、日本からは消えてしまったのかもしれません。 たまに出会う自分の子供ほどの年の日本の若者に、最初から行き成り敬語無しの友達言葉を使われて面食らうのは私だけではないかもしれません。 また、そうさせてきた大人の私達も社会人として責任があるのでしょうが。 最近日本のドラマで『SAITOU SAN (斉藤さん)』というのをやっていたのですが、思わずうなってしまったのが、今こういう大人は居ないなという事。 若い人に遠慮しすぎていたり、友達親子となってしまったり、その結果若い人に恐れられる大人が居なくなったということ。 生きていく智慧や、悪いことは悪いと、嫌われるのを覚悟で若い人に忠告できる大人が少なくなったということ。 愛情があるからこそ、できる忠告はあるのだと思うのですが。 そして、自分が長く生きてきたという自信から、若い人たちに『智慧』を伝えることができる大人も少ないのかもしれません。 これはアメリカでも何も変わらないものです。 敬語こそありませんが、『大人』と『子供』の区切りはハッキリしているので、成長する=智慧を得るという図式はしっかりこの文化にもあると思えます。 

ちょっと話がそれましたが、自分が年をとることで重ねる経験。 そしてその経験から得る智慧は、決して教科書だけから得た薄っぺらな知識に変えがたいものだということ。 父の死を経験して得た智慧は多く、そして自分の中で不動のものとなってきています。 その経験というものは、人として生まれて、人と関わって、喜びや悲しみを通り過ぎ、初めて智慧となって生きていくのだと思えます。 その経験は決して『家族の死』という大きなイベントに限らず、『人と関わる事』であれば何でも経験となるのでしょう。 それが社会人・仕事人としての責任の絡んだ関わりであったり、家族人としての責任と愛情の絡んだ関わりであったり。 人は、人と関わることでしか何かを学べないのだと思います。 

父の娘として生まれ、『父と娘』という縁を全うできたことで学べた智慧は数多いものでした。 その中には葛藤、対立、愛情、別れ、色々多様な側面がありました。 どんなに対立した時ですら、親子としての愛情は深くそこにあり、それがどんな形であっても私達親子は『逃げず』に『関わろう』としたからこそ、父の死のときにお互いに言葉は無くても、お互いへの大きな愛に包まれた瞬間をもてたのだと思います。 この父の娘として生まれたことも又、釈迦が言うとおり『在り難し』、つまりその奇跡に感動せざるを得ない経験ということでしょう。 

この色々起こった年の終わりを迎える前に、私の心の中は『在り難し』の一言で満たされています。

お父さん、私の父でいてくれたこと、そして何があっても父で居続けてくれたこと、感謝の念でいっぱいです。

皆さんも、今周りにいるSignificant othersを見渡してみてください。
そして、その状況が『在り難し』なのだと、ちょっと考えてみてください。

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